昭和49年09月29日 朝の御理解
御理解 第4節
「此の方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった 。此の方金光大神あって神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此の方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
神からも氏子からも両方からの恩人、此方金光大神。その金光大神様が御誕生になる。御出生になる。そして百六十年。今日はその満百六十年目に当たられる。御生誕の御祝いの御祭りがある訳でございます。その大恩人である所の、金光大神様の御生誕の御祝いに、私共はどういう信心をもって、金光大神に喜んで頂いたら、良いかと言う事が一番問われる訳です。皆さんの心の中に、どう言う様な思いがあるでしょうか。
今日は教祖様の生誕祭。私は気が付かなかったのですけれども、先日お道の新聞を見せて頂きよりましたら、満百六十年に当たると言う事を知らなかったんです。満百六十年にあたる。してみると丁度私が生れたのは、教祖様の満百年の御生誕の年に、私が生れたと言う事。私が満六十ですから。これは私は何かね改めてね五十年目とか、百年目とか又は千年目とかいうね大きなその、金光教にとっては、金光大神のそうした、いわば私が生れておると言う事を気付かせて頂いて。
何かね有難いというよりも、何か責任を感ずる思いが致します。果たして金光大神にどれ程しの喜びの頂けれる信心が、頂けておるだろうかと。成程御生誕といえば、お互いの言うなら誕生日でもそうでございますけれども、まあ赤飯を炊いたり、尾頭付きを祝うて、まあ生誕を祝う訳です。ですからそういう意味で形の上で、例えばお供えをするとか、大きな鯛のお供えをするとかと言う事だけでは、今日の生誕祭は済まされない。
そんな気が致します。そこでなら神様が、一番喜んで下さると言う事は、どう言う事であろうかと「神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言う事に背かぬよう、よく守って信心せよ。」と。金光大神の教えておって下さってある事をよく守るという事。そしてよく守る事によっておかげを頂く。いうなら信心を頂くいうならお徳を受ける。もし金光大神この世にいまさなかったならばです。今日の私はなかった。私共の今日の幸せはなかった。
思えば思うほど今日はそういう大切な、いわば日ですから例えば、私の六十年の信心を振り返ってみてです。成程その間にない命を助けて頂き、開けぬ道を開かしてもらい、本当に金光大神お取次の働きによって、今日なら私大坪総一郎があるのでございますから。私がどんな信心をもって、金光大神にそのお礼を申し上げねばならんかと。果たして、金光大神の言う事に背かぬようにとおっしゃるが、どれ程背かぬ生き方をしてきただろうか。大した事も出来んのに。
今日このようなおかげを頂いて御座いますから、あらためてそれを思う。皆さんもやっぱり同じでなからにゃいけん。今日は生誕祭だからお祭りをすると。どうもこの頃この頃と言うのが、これは合楽かばめを通してからでございますけれども、御生誕祭にはとにかく金光大神様が喜んで頂く事のために御教えの中に、年寄りを大事にせよと仰せられるから、せめて年寄りを大事にするしるしだけでも現わして、今日はお年寄りの方を、まあ普通で言われる敬老。
年寄りの人を敬う。大切にすると言った様な。まあしるしのような事ですけれども。お祭りに引き続いて、お年寄りが喜ばれるような、まあ言うならば酒魚でも作らせて頂いて一献差し上げよう。そして何か演芸でも。昔は各地区地区での、出し物というですが、まあお互いの素人芸でも出させて頂いて、喜んでもらっておりましたのですけれど。最近は所謂玄人の方を来て貰って、毎年浪花節を聞かせて貰うというのか、お広前の恒例のようになった所がおかしな事にですね。
勿論御用なさる方は、皆さんお参りになりますけれども、生誕祭とは敬老の日である。年寄りだけが参る日と言う様なですね、間違った考え方になってしまっておるような向きがあるのです。普通月例祭に参って来る人でも参って来んです。おかしな話ですね。只お年寄りだけが参って来ると言った様な。だからお年寄りだけのお祭りのような感じになってしまう。実を言ったらそれでは神様に相済みませんですね。
お互いが言うならば、金光大神あって、神が世に出たと仰せられるように、天地金乃神様も、金光大神を恩人と言われる程しの御方であります。勿論私共がおかげを頂いとるということもです。金光大神がこの世におわさなかったら、これは私一人の事を言うても、今日の大坪総一郎はなかったんだと。そこで私共は言うならさあ麗々しゅう生誕のお祭りをする事も、さる事ながらです。
おかげでこういう信心を頂いとりますと言う事がです。矢張り最高の金光大神の御喜びであり、御生誕に対する所の御祝いの、いわば御礼の実中身でなからねばならんと、私は思うです。そこでですね私共が言うならば、ない命を助けて頂いたとか、開けぬ道が開けたとかというだけのおかげでは、大した事はないと思う。私は今日御神前で永遠の喜びを頂いた。永遠という事は言うならば、この世あの世を通していついつまでもの喜びという意味だと思うんです。
教主様の信心の素晴らしいと言う事は、私達がいわゆる万物の霊長である。万物の霊長としての値打ちを愈々頂いて、作り上げて磨き上げて「死したる後、神にまつられ、神になる事を楽しみに、信心せよ」と仰せられる。そういう信心を楽しみに、お互い信心をしておるかという事です。おかげをごりやくを頂かなければならんから、信心しておるというのでは、だから大した事はない「死したる後、神にまつられ、神になる事を楽しみに、信心せよ」と。
言うならば生神金光大神を、言うならば目指して私共は信心して行かねばならない。私共は神になる事を楽しみに信心して行かなければならない。おかげを頂くために信心するのじゃない。その神に向かって信心さして頂いておる。その信心におかげがとものうてくると言うのが、金光様の信心のおかげであります。私は永遠の喜びというのは、私共の心がです。一歩一歩神様に向かって近ずいておる。信心さして頂くようになったら、段々自分で自分の心が拝めれるような心の状態になってくる。
自分の心の状態が拝めれるように成って来たら、自分の周囲周辺の全ての人にも、全ての物にも事柄にも御礼が言えれる。合掌できる様なおかげの状態。所謂極楽の状態が、自分の周辺に広がっていく。そう言う事が神になる言うならば過程であると私は思います。果たしてどうでしょうか。自分で自分の心が拝めれる様に成って来つつあるんだろうか。自分の周辺にそれこそ、有難づくめの事に成って来ているであろうか。あの人は仏様のような人。この人も神様の様な人に見えて来る様に成って来たであろうか。
そういう私は神になり、神にまつられる事を楽しみにと言う事は、そう言う事を楽しみだと思う。又のお言葉の中に、教祖様の「神になる。神になると言うても、この世で神になっておかずして、あの世で神になれるか」と仰る。ただ御霊の神様というその神様とは違う。ね、金光教でいう。神というのはだからこの世で、自分で自分の心が拝める状態を私は神だと思うです。
自分で自分の心を拝む。そういう例えば事が、まあ時々でも良いです。自分の心所謂本心のたまを本当に磨かせて頂いておるとです。自分で自分の心を拝ませて頂く。頂ける。頂かなければおられないようなものが、自分の心の中に生れてくる。本当に信心しとるおかげでという訳なのです。心が楽になってくる。楽しうなってくる。いやが上にも有り難うなってくる。
そういう時です。自分で自分の心が拝みたいごとある時は、私はそういう信心をです。しかもね、一人一人百人百様違います。そりゃその人その人の独創性というか、創造的な、又は個性的なです。信心が合楽に御神縁を頂いておるから、皆私と同じようにならんなという事はありません。私の頂いとる信心をです。皆さんが一つのまあー手掛かりとなさって、そして皆さん銘々のより、私より素晴らしいものを持っておられる訳ですから、それを愈々磨き上げていく。創造していく作り上げていく。
おかげを頂いて貰いたい。そういうおかげを頂いてこそです。始めてなら今日の生誕祭に、神様本当に信心のなかった時代。あなた様の教えを頂くようになってこの方、このような有難い事になって参りました。昔仏教真宗の宗祖である所の親らん聖人様の修行中に、親らん聖人様の御命を断とうと言うて、山伏の弁円という人が、親らん聖人様のお帰りを待ち受けて殺害しようとした。
この道を通って帰られるというので、その道に待ち伏せておるけれどもです聖人様御一行の言うならば、南無阿弥陀仏を唱えながらお通りになるのが山の峰づたえに聞こえるかと思う。だから峰の方に行くともう谷底の下の道を通っておられる。おかしな事だと思って、又登って行くともうすでに山の峰の上で南無阿弥陀仏の声がする。とうとう一晩かかったけれども、その殺害する事が出来なかった会う事が出来なかった。
そして初めて上人様のお徳に恐れ入って、自分がその事をザンゲして、聖人様のその山伏弁円が、お弟子にならせて頂くというお話があります。その弁円がね愈々聖人様にきえしきって、愈々仏教の有難い事を分からしてもろうて、毎日信心精進をさして頂いておる。ある日聖人様のお帰りが遅いからと言うのでお迎えに出た。そのお迎えに出たその道が、丁度何年前に上人様の命を狙ったその場所に出た。
そん時にそれこそ感慨深く感じたのですね。「この道は今も昔も変わらねど変りはてたるわが心かな」という歌を作ったという事です。それであってはじめて親らん聖人様のおかげであり、親らん聖人様が喜んで下さるのです。人の命をもと思っておったほどしの自分が、しかも何年前この道で聖人様の、いわば殺害しようとまで謀った自分がです。何と変わり果てた事であろうか。
その上人様を師匠として、その聖人様のお帰りを迎えに出ておる自分の心を思うて、まぁ何と変わり果てた事であろうかと、自分自身の心を合掌したというのは、そういう時じゃなかろうかと。果たして皆さんがです。信心のあった時代、又はこうして信心を頂くようになってからこの方、おかげを頂いてきたが、果たして自分の心の上に、そのような変わり果てたというか、良い意味においての変わり果てた。
所謂生まれ変った。自分で自分の心が拝める様なおかげを頂いたと思える様なその心を、今日はお供えをしてその心を神様に金光大神に喜んで頂く。言うなら誕生のお祝いとさせて頂くと言う事になったら、今日の生誕祭が大変有難いものに、金光様も喜んで下さりゃ私共も喜ばして貰い、又今日招待を受けられてここにみえられるお年寄りも又喜んで頂けれるという有難い御生誕、さらには奉仕する事が出来ると思います。
金光大神の言う事に背かぬように、おかげを頂いてさえいけばです。問題は自分が変わっていくのですけれども、中々言う事を聞く所か、反対の様な事になっておる様な場合すらがあるのです。金光大神様のおかげで、今日この様におかげも頂きました。私自身もこの様に変わらして頂きましたと言う事をです。今日の御生誕の御礼のいわばお供え。言うならば御礼の祈りの中に、言葉にさして頂いたら、金光大神様も愈々喜んで下さる事だと思います。私共も又喜べる訳であります。
どうぞ。